映画コラム

 

『三度目の殺人』の予告編を観て、起草したのが『ライフ・オブ・デビット・ゲイル』

ケビン・スペイシー演じる大学教授がレイプと殺人の罪で投獄され、死刑確定となるが記者を呼び出し語り始める。彼は冤罪ではないか?と疑うのだが…果たして真実は?

あっと驚く結末と切ない真実に胸が痛む本作だが、是枝監督が「ホームドラマからはしばらく離れる」と言って撮った最初の1本『三度目の殺人』はライフ〜とは全く違ったアプローチの映画であり、カウンターパンチを食らった気分。

おそらくこの予告編を観たお客さんは誰しもが真犯人は誰なんだろう?なぜ殺されたんだろう?どんなどんでん返しが待っているんだろう?といわゆる典型的な「ミステリー的」展開と結末を期待し映画館に足を運ぶと思うが、筆者と同じようにパンチをもらって劇場を後ににすることになる。

本作『三度目の殺人』はあっと驚く「ミステリー」ではなく、日本における【司法制度】の現実を通して【真実】について描く大傑作だった!

真実はいつも1つ!と毎話で啖呵を切っているコナンくんには申し訳ないが、この世にハッキリとした「真実」というのは存在するのだろうか。少なくとも裁判のように検事、弁護士、裁判官、陪審人など【第三者】が介入した上で追い求める真実ってなんぞや…?

この話をわかりやすく例えるとして、筆者の土俵に持ち込んで申し訳ないが、お笑いライブであるお芸人が50人のお客さんの前でネタを披露したとする。全く笑い声が聞こえない3分間。芸人は袖に戻り「スベった…」と肩を落とすが、その日のお客さんはなんだか空気が重くて笑い声を出さない様子。本番後に客席で見てくれていた友人に感想を聞くと「面白かった!」と。50名のうち半数以上がそのような感想を気を遣ったわけでなく本気で口にし、残りの観客はつまらないと感じたとする。では、この場においての真実は…?この芸人がスベったかどうかという【判決】は誰が下すのだろう?

「それはお笑いという1つの表現だからその人の好みじゃないか!」と言われたらすみませんと言うしかないが、極論こういう訳で。もっと身近に例えるなら…

「とある主婦がスーパーA店にネギを買いに行ったら、スーパーB店のネギの方が安いという噂を耳にして、B店へ行きネギを買った」という事実があったとする。

しかし、主婦は本当にネギが安いからB店に行ったのだろうか。

スーパーA店に嫌いなママ友がいたのでは?イケメン店員がB店にいることを思い出したのでは?ダイエットのためにあえて長距離を移動したのでは?ネギ以外の買い物があったのでは?A店のネギは腐っていたからなのでは?占い師・新宿の母に安いネギを買いなさいと言われたことを思い出したのではないか?はたまた単なる気分だったのか……?考えだしたらキリが無い。

主婦がAではなくBにネギを買いに行った真意は本人にしかわからない。いや、本人にも答えられないかもしれない。

つまり、1つの現象に対してどう映ったかは、それを目撃していた人間の年齢、経験、価値観などによって異なるわけで【真実】の追求は難しい。

ましてや裁判のように当事者ではない第三者が介入した場合、余計に見えなくなるし、逆に真実をハッキリさせることのほうが至難の技である。

実際、日本の裁判は「真実を究明する場ではなく、利害調整をする場」であると弁護士から話を聞いた是枝監督は本作を撮る決意をしたそうだ。

「社会の法」という柵の中で生きる私たちの胸にこの映画はグサっと刺さり不安が芽生え、映画内のある結末を迎える過程を目にしているとその不安はますます大きくなり不気味な花を咲かせる。咲いた花は映画を観終えた後でもすくすくと根を張り成長し続ける。そんな背筋の凍る恐ろしい映画だ。

 

 

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。